暇鳥風月

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ざれごとからたわごとまで

〈希死念慮〉という言葉を知らないときに書いたブログ

 彼女がほしい

 そんな感情をぼんやりと抱いてから数か月が過ぎた。性に飢えているから?違う。人恋しくなった?それも違う。じゃあ彼女はいらないってことじゃないか?断じて違う。

 

 私には〈朝ご飯抜く〉とか〈遅くまで起きる〉とかそのくらいのテンションで〈死ぬ〉という選択肢が湧くことがある。

 ただし、あくまで湧くだけ。湧いた後はすぐに消える。別に私は自殺志願者でも精神疾患を患っているわけでもないから。ただ、なんとはなしに死んでもいいなという瞬間が訪れる。それだけのこと

 私は現在こうして生きている。なぜか。主たる要因は親にある。今死んだら親が悲しむだろうなあと思って、申し訳なくて死ねない。だから生きている。だから死んでいない。今までは。今までこれでやってきてたし。

 でも、半年前に祖父が往生を遂げた。今までそこにあるものだと思ってた祖父がいなくなってからというものの、「(私の親もいつかは死ぬんだな)」と今更ながらに思うようになった。そしてそう考えると、時たまやってくるあの選択肢がひどく怖くなった。

 

 〈死んでもいいのでは〉という感情のボヤを瞬時に消していたのは両親の存在に他ならない。でも、そんな親がいなくなったとき、どうだろう。頻度は高くなくても〈死ぬ〉という選択肢は私のとる行動としてそこまで不思議なものじゃなくなる。私にとっての死ぬという行動を妨げるモノが、あまりにも貧弱なのだ。

 もし私が儒教の思想を色濃く受けておらずに『孝』なるものを知らなかったら。親が逝ったら。それでなくても、親と関係が悪くなって絶縁状態にあったら。たらればを宣ってもどうしようもないが、もしそんな状況になったら、私の中の〈死ぬ〉という選択肢は弱いものじゃなくなるし、普通に死にかねない。むしろ死ぬのが安牌のようにも思えてしまう。

 ──そんなことを現実味をもって思えてしまった。思えてしまったので、まずい。

 

 だから彼女がほしいし、ゆくゆくは結婚相手がほしい。私がふとした瞬間に人生のセーブデータを消したくなったときにそっと脳裏をよぎってくれるような。衝動的な気の迷いを断ち切ってくれるような。そんな命綱がほしい

 

 私は人間だから、煩悩まみれだし、究極には死にたくない。死にたくはないんだけど、現状生きたいと思える要素もない。だから死ねない理由がほしい。できるだけ作成に自分で関われるような、何か形に残るようなもの。それでいて、比較的長期間効力を持ち、契約解除にそれなりの手間を要するもの。そう、パートナーとか。子供とか

 

 だいたい、今、生きてることだって、私は実感を伴っていない。現実から目を背けたいがあまり、空虚な現実を生きて、リアルな虚構に身を預ける。それが昼夜で機械的に繰り返される。はっきりしているのは形式的には死んでないだけで、そこに生きているという実感なんて伴っちゃいない。

 

 現実を見なきゃいけないな。と、最近になってからよく思うようになった。等身大の自分を受け止めないことには何も始まらないよと。答えももう出ている。しかし、どうにも怖いのだ。現実を見ることで嫌気がさしてセーブデータを消してしまうんじゃないのか、と。見た現実が致死量だった場合に怯えて、行動が起こせない。臆病にもほどがあるが、〈生きる〉ことを決心してとった行動で死んだらいやだなんていう杞憂がいつもある。そうなったらいやだから、何か最後のよりどころを作っておきたい

 

 そういうわけだから、私は彼女がほしい。けれどもそういうわけであるから、私は一向に彼女ができない。