暇鳥風月

暇鳥風月

ざれごとからたわごとまで

枕草子ごっこ

 雨が好きだ。

 

 私は天気の中だと雨が一番好きかもしれない。高校時代はちっぽけな道場しかない弓道部員だったため、雨の日には満足に弓を引けずに悶々としたこともあるが。そういう立場を抜きにすれば雨は大好きである。雨が降るというだけで気分がちょっとだけ上向きになるのだ。

 

 まず、音がいい。傘や屋根に打ちつける音。雨雫が軒先から垂れる音。私は往来の音がいささか苦手なので、外出するときは基本イヤホンを耳に挿しているのだが、雨の日に関してはプレイリストを止めて、イヤホンを外して聴くほど雨音というのは心が安らぐ。音の強弱というのもなかなか楽しいもので、いくら聞いても飽きない。しとしととかザーザーとかぽつぽつとか、雨というのはかなり表情豊かだ。

 

 音だけじゃない。雨の匂いも私は好きだ。立ち上るアスファルトの匂いとか、こもった草木の匂いとか。汗臭い電車の匂いだけは勘弁だけど、そういう普段とは一変した世界というか、特別感ってやつだろうか。例えば夕立を予感させるような空気のどんよりなんかはそれはもうテンションが上がる。

 

 私の中で雨はなんか「明るさ」を感じ取れる世界だ。何言ってんのって感じだけど。冬は寒いがゆえに暖を取れるのと同じ原理で、太陽が隠れれば明かりは灯るし、ちょっとひんやりしようものならこたつに入ってぬくもりを感じながら本を読む。雨そのものではないけれども、雨の日の過ごし方もこれまた好きなのだ。まあ雨の日じゃなくてもこたつに入ってだらだらするのだけれども。

 

 そういや雨と本で思い出した。私は読書はわりかし好きな部類なのだが、国語の時間の小説で”情景描写”を考えるのが苦手だった。慣れてしまえば簡単なものだったけどね。でも『夕立雲が迫って』きたら無条件に胸が高鳴り、『きれいな青空』だったら不安を覚える天邪鬼な私からすれば、どうしてこの情景がその心理描写になるのか、となかなか苦しんだ記憶がある。特に天気の描写はダメだった。

 正直なところ、未だに理解できないこともある。「どうしてこの主人公は雨で閉塞的な気持ちになってるんだろう」って。まったく、まったくふざけた心理だと若干の苛立ちさえ感じる。雨が降れば傘をさす。傘をさせば自分だけの世界ができあがる。私の周囲を取り巻く世界は雨音で遮断されて、私は邪魔の心配がないもんだから、歌なんか歌いながら帰ったりする。なんなら傘だって上に開いて掲げる必要さえない。そのまま雨に濡れながら帰る。鼻歌交じりで。18年を適当に過ごしてきた私は、こうしたことを何度となくやってきた。馬鹿か。いや、馬鹿なんだろうな。

 あの世界は自分だけの閉塞的な世界だったかもしれない。でもその世界は間違いなく自由に満たされ、その中に閉塞感なんてこれっぽちもなかった。これ以上開放的な悦楽を私は知らない。にもかかわらず雨を閉塞的だとぬかす輩もいるのだからこの世界も広い。

 

 

 ま、何はともあれ「雨っていいよね」って話でした。それではまた。