暇鳥風月

暇鳥風月

ざれごとからたわごとまで

6月の終わり、父方の祖父母の家に行った。祖父の見舞いのためである。

4月頃に体調を崩し、経過観察のため入院していた祖父は、5月には退院、自宅療養していた。

ところが6月下旬に容態が急に悪化し、年も年なため、私は親に命じられ急遽地元に戻ったのだ。

 

 

 

祖父母の家に着き、祖父のいる部屋に向かった。祖父は介護ベッドの上で横たわっており、いわゆる寝たきり状態だった。

 僕は祖父に、目線を合わせて「こんにちは」とかなり大きめの挨拶をした。すると、祖父はこちらの声に気づいたようで、声のする僕の方を向いてくれた。

 

祖父の目は、濁りの一つもない、快晴の日の空のように澄んだ瞳をしていた。今まで見たことのないような綺麗な瞳だ。

 

 

 

 

 ただ、瞳孔は上下左右に忙しく動き続けており、決して僕を捉えることはない様子で、見るからに普通ではなかった。

 

 

 

 ちょっと前までの元気そうな姿を知っていた僕にとって、それは結構ショッキングな光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正直に言う。僕はその祖父の顔を見て、「怖い」と思ってしまった。

おそらく、祖父に迫っている「死」という存在を感じ取ったがための悲しみと同居した恐怖もあると思う。

しかし、あの時に感じ取った怖さは、どちらかというと悲しさなんて入り交じらない純粋な恐怖心、ある種の気味の悪さに近かった。

 

 

 

 

目の前で寝ているのは祖父なのだ。それは頭で理解している。痴呆が進んでいることも親から知らされていた。が、それを勘案しても祖父の面影は全く感じられなかった、悲しいほどに。この老人があの祖父であることに納得ができない、それどころか別の生き物のようにも思えた。そんな感覚だった。そして、その感覚がどうしようもなく怖かった。

 

 

 

目一つでここまで感情が動かされるということは、やはり、“目”の持つ意義は機能的側面からだけでは決して語ることはできないほど潜在的で、そして大きいのだと思う。

 

 

妖怪などの人外というのは非生物に目と口を与えられたものが多い。それだけ“目”というものが潜在的に『生』を象徴してるからなんだろう。目が生命を吹き込むと言えば良いのだろうか、要するに、目は生命体を生命体たらしめる重要な要素なんだと思う。

 

また、化け物には目が2つじゃない類いのものも多い。モンスターズインクでは、一つ目のモンスターや目がたくさんあるモンスターが多くいる。これはきっと、生命体の象徴である目のルールを少し外すことで歪で異様な雰囲気を出しているのだろう。

 

 

 

 

 

繰り返すが、目は重大なはたらきを持つ器官だと思う。そして、それと同様に“見る”という行為にもとても大きなはたらきがあると思う。

 

なぜなら、祖父は目が一つしかなかった、なんてことではないし、僕が怖いと思ったのはそこではない。普通はしないような目の挙動を見たときだからだ。

 

 

僕は祖父の定まる気配のない目線を「(こわい)」と思った。祖父はもう遠くに行ってしまったと思うくらいの衝撃だった。僕は得てして言葉を盛って大袈裟に話すきらいがあるが、本当にそう感じてしまったのだ。

 

 

 

 

 「俺の目の黒いうちは」なんて言葉があるが、今になってその重みを犇々と感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう書くこともないというか、収拾がつかないので終わりにするが、祖父母の家を去る際、少し調子が回復した祖父は僕のことをまっすぐ見てくれた。僕のことを見てくれたのだ。ベットで横たわって、確実に僕を見つめて、手を振る仕草をしようとしてくれたその老人は、紛れもなく僕の大好きなじいじだった。多分次合うときはもう反応してもらえるかわからない、無理かもしれない。それでもとにかく最後の最後にじいじに会えた。会うことができた。それがとても良かった。