枕草子ごっこ
雨が好きだ。
私は天気の中だと雨が一番好きかもしれない。高校時代はちっぽけな道場しかない弓道部員だったため、雨の日には満足に弓を引けずに悶々としたこともあるが。そういう立場を抜きにすれば雨は大好きである。雨が降るというだけで気分がちょっとだけ上向きになるのだ。
まず、音がいい。傘や屋根に打ちつける音。雨雫が軒先から垂れる音。私は往来の音がいささか苦手なので、外出するときは基本イヤホンを耳に挿しているのだが、雨の日に関してはプレイリストを止めて、イヤホンを外して聴くほど雨音というのは心が安らぐ。音の強弱というのもなかなか楽しいもので、いくら聞いても飽きない。しとしととかザーザーとかぽつぽつとか、雨というのはかなり表情豊かだ。
音だけじゃない。雨の匂いも私は好きだ。立ち上るアスファルトの匂いとか、こもった草木の匂いとか。汗臭い電車の匂いだけは勘弁だけど、そういう普段とは一変した世界というか、特別感ってやつだろうか。例えば夕立を予感させるような空気のどんよりなんかはそれはもうテンションが上がる。
私の中で雨はなんか「明るさ」を感じ取れる世界だ。何言ってんのって感じだけど。冬は寒いがゆえに暖を取れるのと同じ原理で、太陽が隠れれば明かりは灯るし、ちょっとひんやりしようものならこたつに入ってぬくもりを感じながら本を読む。雨そのものではないけれども、雨の日の過ごし方もこれまた好きなのだ。まあ雨の日じゃなくてもこたつに入ってだらだらするのだけれども。
そういや雨と本で思い出した。私は読書はわりかし好きな部類なのだが、国語の時間の小説で”情景描写”を考えるのが苦手だった。慣れてしまえば簡単なものだったけどね。でも『夕立雲が迫って』きたら無条件に胸が高鳴り、『きれいな青空』だったら不安を覚える天邪鬼な私からすれば、どうしてこの情景がその心理描写になるのか、となかなか苦しんだ記憶がある。特に天気の描写はダメだった。
正直なところ、未だに理解できないこともある。「どうしてこの主人公は雨で閉塞的な気持ちになってるんだろう」って。まったく、まったくふざけた心理だと若干の苛立ちさえ感じる。雨が降れば傘をさす。傘をさせば自分だけの世界ができあがる。私の周囲を取り巻く世界は雨音で遮断されて、私は邪魔の心配がないもんだから、歌なんか歌いながら帰ったりする。なんなら傘だって上に開いて掲げる必要さえない。そのまま雨に濡れながら帰る。鼻歌交じりで。18年を適当に過ごしてきた私は、こうしたことを何度となくやってきた。馬鹿か。いや、馬鹿なんだろうな。
あの世界は自分だけの閉塞的な世界だったかもしれない。でもその世界は間違いなく自由に満たされ、その中に閉塞感なんてこれっぽちもなかった。これ以上開放的な悦楽を私は知らない。にもかかわらず雨を閉塞的だとぬかす輩もいるのだからこの世界も広い。
ま、何はともあれ「雨っていいよね」って話でした。それではまた。
たまごとるタマ
『いたちのたぬき』という歌がある。
確かEテレの『ピタゴラスイッチ』か『0655』で流れていた。内容はいたってシンプルななぞなぞ数え歌で
いたちのたぬき=〈いたち〉から〈た〉を抜く=いち
という具合で、一から十まで数えて終わる。というなんともかわいらしくて楽しいお歌
私の家では父の絶大なる寵愛甘やかしを受けた妹が我が家に一つしかないテレビの視聴権を掌握していたため、日中はEテレか金ローの録画のどちらかが映っているのが日常風景だった。だからだろうか、たまにふとした瞬間におかいつとかはなかっぱの曲が脳内で流れ始めることがある。
で、この前流れてきたのが『いたちのたぬき』という歌だったという話。それで、ちょっと歌詞を見てほしい。
作曲・うた:栗原正巳 作詞:うちのますみ・佐藤雅彦 アニメーション:うえ田みお |
いたちのたぬき かにのかとり さんまのまぬけ* おはしのおはなし たまごとるタマ ふろくふとる バナナのバトル はちまきまきとる きゅうりのリトル ジュースのストロー |
引用元:http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/nazonazouta.htm
私が聞いたころは〈さんまのまぬけ〉→〈さんまのまつり〉に変更されていたが、これを聴いていた当時は「きゅうりのリトルってなんだよ、リトルなきゅうりだろ」ってよくわからない不平を垂れていたり、ジュースのストローが異常にテンション高くて子供はこういうの好きそうだよなあとか子供ながらに思ってました。こうして振り返ると子供の頃の私全然かわいくないな
で、この歌詞を見ていて気付いたことがある。
これ、5だけ破綻してない?
だってさ、〈たまご〉をとってるんだよね?とられる前のものが〈たま〉でしょ?
なにも残んないじゃんか。0?いや0どころで済んでないわこれ。
たまひくたまごは?『マイナスご』じゃん。なんで?なんでこいつだけマイナスの概念導入されてんの?怖っ
思えばなんだよ、たまごとるタマってよ。イタチタヌキカニサンマときて急に種名じゃなくて名前つけられてるじゃん。何その妙な距離間は。なんで猫だけ愛着湧いちゃってるんだよ。
だいたいさ、固有名詞であるタマがさんまとかジュースとかと同格に扱われてるの、すっごく腑に落ちない。タマがOKならさ、もう何でもアリじゃんか。お前ちょっとサザエさんちに飼われてるからってなに一般名詞ヅラしてんの?調子のんじゃねえよ
凄いよこの歌。5でことごとく秩序を破壊したうえで6以降何事もなかったかのようにそのルールが復活してるよ、なにこのメリハリの付け方。たまにあるクレヨンしんちゃんのめっちゃ怖い回かよ
どんだけ難産だったんだよ5は。他にもっとあっただろうがよ。あるだろ、「ご」って一音なんだしさぁ。もっとふさわしいのがさぁ…流石に私でももっとましなのが…
あれでも全然ないな…いやそんなはずはない。探せばあるんだ絶対、もっとふさわしいのが。ひねり出せ、ひねり出せ私の頭…
ひねり出した対案
・孫の間抜け
・シカゴの鹿狩り
・稚児の血抜き
・慎吾の香取(?)
…
…
ごめんタマ。いや、卵獲りのタマ。君が優勝だ。
過去記事ふりかえり
ご無沙汰しております。ぬぅ改めびたです。
Twitterでの一人称とブログの文体が安定しないことでお馴染みの私ですが、気づいたらこのブログも始めて一年をとうに過ぎておりまして、たまには振り返るのもいいかなぁと。そう思った次第です。
とはいえ何を振り返るのかも考えていません。完全に見切り発車ですがまあ何とかなるでしょう。最近の下書き記事が重めなのでお茶濁したいだけですハイスミマセン。
ということで自分の過去記事をざっと見返して自画自賛していこうと思います。あまりまじめに受け取らないでほしいんですけど、自惚れができるときに自惚れとかないとだめなんじゃないかと思うんですよ。自分に対する評価って自惚れと自己嫌悪が描く正弦波みたいな感じで、これを繰り返すことで自分への理解が深まって大人になってくんじゃないのかなぁって。要は「自画自賛したいから許して^^」ってことなんですけど
あ、これ以降グダグダなのでそこんところご容赦を。
〇はじめたきっかけ
もともとfc2ブログの方でなぜか書いていたんですよね。マジで誰にも言ってなかったので何がモチベーションだったのかは甚だ疑問ですが。〈見る人がいない〉=〈周囲の目がない〉という点ではのびのびと書いてました(ハイパーポジティヴ)。そのせいか痛々しさもすごいので僕は未だに直視できません。
まあ色々と楽しくやってはいたのですが、僕の友達に見られる前提のものを書きたいと思うようになったのです。その際に過去の負の遺産と決別を果たすべく、心機一転、別の場所で書こうと思いたち、このブログが生まれたんですよね。特に書きたいことがあったわけでもなかったんですけどね。
ちなみにタイトルは始めた当初は「便所の落書きみたいな雑記帳」みたいな名前だったんですが、長かったので変えました
「暇鳥風月」の由来は、私が中学の頃好きだったサイトのカテゴリ名が四字熟語のうち一つを組み替えたもので、それを厨房だった私が「いいな」と思い踏襲しただけです。「暇鳥風月」という四文字に思い入れは微塵もありません。
〇はじめたて
はい、なろう小説のタイトルみたいなこいつが、僕がはてぶろでかいた初めての記事ですね。書き出しが「いやいやいや」から始まる初記事は何となく嫌ですね。個人的に否定形から入るのはひねくれてる感があるので。入りが否定で許されるのは『いいえ私はさそり座の女』くらいですよ。
それにしても、初めてにしてはそれなりにまとまってますよね(自画自賛)
これは当時僕が好きで読んでいたかんそうさんというブロガーのインスパイアもといパクリの結果ですね。こいつとあと「タピオカ」のやつは顕著ですね。まあ言い訳するならば剽窃というよりは模写みたいなものですよ。多分。
↑に関しては、「最後のが言いたかっただけじゃないか」って思いますね… あとは唐突におっきな爆弾をぶち込もうとする癖も良くないですね、多分着地のさせ方がわからなかったんでしょうね
最初の頃はとにかく面白いのを書きたい!っていう気持ちが先走って書いてる感がありますねぇ、なんかくどくて読みづらい気もします。個人的にはくどい文章も嫌いじゃないんですけど、内容もつまらなくて文章もくどいと地獄なのでできるだけ避けていきたいですね
あと、ケースバイケースですけどできるだけしゃべり言葉で書いてるつもりです。実際は書き言葉:話し言葉=3:7かな?理由としては簡単でわざわざ書き言葉に変換する必要がないから。あとはその時抱いた感情とかテンションを表しやすいと思ったというのもあります。ただ、この時期はまだそんなのも定まってないので結構悩みながら書いてた気がします。
脱線しますけど、ブログ特有の改行の文化は未だにわかってません。前に文字だらけだと見づらいと言われたので誰か教えて
〇道半ばで終わった構想
あとは受験感想戦と銘打ったものもありました。
まあ僕の受験期はけっこうネタになりそうなエピソードもあったのですが、肝心の〈受かるために必要なメソッド〉みたいなのを何一つ持ち合わせていなかったうえに、書いたところで「(結局これ自慢の域を出てないよな…)」と内容も芳しくありませんでした。その後、自慢と自己陶酔を絵にかいたような知り合いのブログを読んだことで、無事お蔵入りが決定。南無三。そもそも身内向けの内容だししゃーない
今書くとしたら受験期の裏垢を遡って実況するとかそのくらいしかないですね、ちなみに受験期一番の思い出は「勉強の邪魔」という理由でクラスの女子のLINEをブロックしまくったことです。
すみません。ウソをつきました。ブロックしまくるほどクラスの女子のLINEを持っていませんでした。見栄張りました。
実は夢日記はずっと前から書きたかったことで、書くに足る夢が見れてようやく実現したというクッソどうでもいい難産を経たのがこいつ。
僕はこの記事は上手にかけたと思ってます。夢の支離滅裂さとシュールさをきちんと読み手にわかるように書けたのではないでしょうか。
もちろん多少の脚色はあるんだけど、僕はこの夢を見て目覚めた後数分間はにやけていました。気持ち悪いですね。
というかこの夢って夢らしくないというか、夢にしちゃ妙に話の筋道が通っていて奇跡の個体なんですよ。悪逆非道の人体実験に初めて適合反応を示した奇跡の個体。
これ以降も面白い夢というのを見てはいたんですが、文字に起こすとまあびっくり、1ミリも面白くないでやんの。夢の話はめちゃくちゃ難しいわけで、徒労にしかならないので夢日記も金輪際ないです。残当
〇単発もの
分類するなら一発ギャグみたいなタイプも書いてますね、というかこのあたりは投稿頻度が短めで、「何でもいいから書いてみよう」みたいな時期だったのかもしれません。
あとは痰とか謎闇ポエムとかですね。自己開示してるという意味ではアーティスト紹介は僕の記事の中ではけっこう珍しい部類だと思います。そのうちちゃんとした曲紹介とかもしたいと思ったのですがその子を下書き送りにしてからはや200日が経過しました。多分もう流産です。
あとはこういった頭のよさそうなことを宣ってますね。どこかで触れましたが、その後ほどなくして祖父は亡くなりました。そのことについてもいずれ触れたいですね
この「目の認識論」みたいなのは夏ごろにもう少し変化していて、「目が大事というのは日本の言語依存度の低さに関係があるんじゃないのかなー」という考えに行きつきました。例えば日本のアニメは感情の大半を目で表現してるけどカートゥーンだと口で表現してて、僕が祖父の目を見て怖いと思ったのはそういう要因もあるんじゃないか~みたいな感じで、くどくど書いていたのですけれどいかんせん言語クラスタでもなんでもない人間だと戯言にしかならなかったのでこの場で供養しときます
〇増してくエッセイ風味
こんな小見出しにしといてなんだけど、エッセイってなんだっけ?ってなってます。え?随筆?いやだから随筆ってなんなんだよ。まあ要するに、面白さとか内容にこだわらずに、以前よりも自由に書いているような気がするってことですね。
なにしろ〈ブログを書く〉という行為そのものをブログに還元しだしてますからね。これはもうあれですよ。よっぽど書くことに困ったんでしょうね…
でも個人的にはこの記事が結構お気に入りでして、このくらいのテンションで毎回かければなぁとか思ってたりはします。
便所の落書き①となっているのは、我が愛すべき下書き欄に便所の落書き②~⑤がすやすやと眠っているからでして、いつ目覚めるかはまったくわかりません。永眠かも。
あとは日記っぽいことも試みてますね。このくらいのハードルで書いていきたいです。
普段の大学のレポート書くのも結構好きなんですけど、流石にかたっ苦しいので息抜きも兼ねてこういうのが増えていくと思われ
多分このあたりで僕の常敬併用の気持ち悪い文章が自分の中で確立しました。ちゃんとどっちか一つに統一してる時もありますけど、そうじゃないときはわかっててごちゃまぜ使用してたりします。案外自分の中ではすんなり受け入れられてるんですよね、なぜかは全くわからんけど
これはオチが言いたいだけのやつですね。総じて言えることですけど、オチありきの話題多いですよね。僕。多分それっぽいこと言ってごまかしたいんでしょうね。結構最後に比重置いてるのかもしれません。多少強引でも着地できないと居ても立っても居られないんですよ。
まさに”おちつかない”ってやつですね
あ?
最近実家に帰って気づいたんですけど、一人暮らしだと話し相手もいないので自然と食べるスピードが速くなるんですよね。そうすると満腹中枢がなんやかんやで孤独ゆえの暴飲暴食つながってしまう、と。皆さんも気を付けてください。
ちょっと気分が沈んでしまったときに書いたやつなんですけど、不思議と今でも読み返すことができるので黒歴史って感じとはまた違う存在になってます。
書いてるときは意識してませんでしたが、秋から冬にかけて槙野さやかさんという、はてなブログに話を投稿されている小説家に傾倒していたので、ちょっとその影響受けている感は否めないですね。いや別に文体も似てないですし何も寄せてないんですけどね…なんとなくです。なんとなく。
関係ないけど槙野さんはTwitterでは理屈をこねくり回して語彙力で殴る感じの偏屈な人ですが小説も面白いのでおすすめです
というか最近書いたやつは自分で見返してもそんなに苦じゃないですね。これは私の文章力が飛躍的な成長を遂げたのかはたまた慣れただけなのか。どうあがいても後者
まあざっくりと振り返りましたけど、勘のいい人ならお気づきでしょう、今回は過去記事をペタペタ貼りまくったアクセス数稼ぎのクソ記事だということに!
いや気にしてないけどさ!固執してないけどさ!あると嬉しいじゃん!アクセスって!なんだよ!悪いか!
今後とも見ていただけると泣いて喜びますのでどうか御贔屓に…
プチ自慢をしたかっただけだったのに
最近嬉しいことがあったのでちょっと自慢します
一つ目に、モニターに選ばれたんですよ。二次試験のモニター
モニターっていうのは、大学の入試問題を一般の受験生とは別の人達が別室で解いて「問題に不備がないか」とか、そんなことを調べる人たちのことです。
で、私は前期試験の生物と英語を解きました。別に問題を正しくことを求められてないので、教科書なり辞書なりを机に広げながら解いて、問題文を吟味するっていうのをやるだけなんですよね。ぶっちゃけ楽です。頭が少し疲れるくらいの、そんな単純作業で時給1500円ってお前…大学が募集かける労働の中でもトップクラスにコスパいいじゃねえか…
大学からこのお話されたときに、時給の話に替わった途端二つ返事でOKしちゃいました。金の力ってすごいね、いやすごいのは私の欲か
ただ、本当にうれしかったのはお金が出たことじゃなくて、私が前期入試である程度の得点が出せていたんだっていうのがわかったからなんです。このモニターって早い話、前期選抜でいい点が取れてた人がやるらしいんですね。つまり俺って優秀?みたいな感じで舞い上がってたんです。入試の得点開示とかもしてなかったので「あ、取れてたんだ、よかった。」という安堵の気持ちもありました。
でも冷静になってみるとそんなに誇れることじゃないなって。
決して卑下も謙遜もしてないですよ。生物と英語はそれなりに自信もありましたから。(その分数学がゲルニカみたいな惨状でしたが)ただ自分の学科は冗談抜きに優秀な人はマジで優秀なので、なんでその人たちに声がかからなかったんだろう。かかったのならどうして断ったんだろう。って、そこはちょっとひっかかってたんです。
で、モニター受けててわかったんです。あのですね、この日って学科のスキー旅行だったんですよね。70人程度いる学科の実に半分くらいが参加してたっぽいんですけど。モニターやっててさ、試験科目の間にスマホ開いたらまあ楽しそうな集合写真に変えてやがんの。いやぁ、そりゃそうだよなって思いました。クラスの半分もかけがえのない思いで作りに行ってたら僕ぐらいの人間にも話は回ってくるはずだわ、って。俺が小銭稼いでる時に向こうは金じゃあ買えないもの得てるんですよ。世知辛いねぇ
っと、話を変えましょう。私はプチ自慢をするために書いてるんです。そうだよ、自慢だ自慢。危うくダークサイドに半身浴するところでした。
なんか誕生日迎えてました。一か月以上前のことなので全然タイムリーじゃないですけど。
19歳ですね。19歳になったからって何か資格がゲットできるわけでも何でもないんですけどね。なんか中途半端ですね、19歳って。素数だし。
ただただ「自分が生まれてきただけの日」なのに、いざ迎えてみると案外うれしいものなんですよねこれが。
私は他人に誕生日を教えない性分です。他人の誕生日を祝うのは別に厭わないんですけど。なんというか、本当に仲いい(とこちらが思っている)人から祝われたいという欲求があるんですよね。高3の時、クラスのそんなに親密でもない人から誕生日を訊かれて適当にはぐらかしたことを今思い出して自分の気持ち悪さに震えています。なんて薄情なんだ。
だからTwitterもLINEも誕生日設定は非公開にしてます。こうしてみると、この非公開設定って「誕生日を公開したときに誰も祝ってくれなかった」なんていう悲しい事態になることを避けるための行動なのかもしれませんね。うーん不埒。
そんな中、僕の誕生日を覚えてくれていた友達が2人、厳密には3人いて、祝ってくれました。今年は流石にいないかなと内心思っていたので、うれしいもんです。ちなみに僕はこうして祝ってくれた相手には絶対的な信頼をおいて、基本的にその人がなんか困ってたら何でもするつもりでいます。もしあなたが便利な下僕や盲目的な信者を欲しているのなら、それは僕の誕生日を祝うことで簡単に手に入ります。僕はチョロいんです。
とまあ、誕生日を見せないことで、「わざわざ言わなくても祝ってくれる人がいる!」という下種な自己肯定感が得らますし、「相手はどう思ってくれているのか」を察することもできるんです。捨てたもんじゃないですよこのシステム。おすすめはしませんが
あとは家族からLINEが送られてきましたね。
兄からプレゼントなんかももらいました。そういやもう社会人なんでしたっけ。兄のお金でもらうプレゼントは新鮮でした。
母から荷物が届きました。相変わらず的確で怖かったです。届いてから少しだけ家の中に監視カメラがあるのかと思い探してしまいました。的確過ぎるというのも考え物ですよ母上
ニンテンドーからオンライン7日間体験チケットとか色々もらえました。正直これが一番うれしかったかもしれない。もう取得期間過ぎたので意味ないんですけどね。でも任天堂君が誕生日覚えてくれてるだけでもうれしいもんですよ。マジで。まあニンテンドーのプレゼントに気づいたのはチケット有効期限過ぎてからなんですけどね。い、いえ、お気持ちだけでもうれしいので。本当です。泣いてなんかないです。
あとはなんですかね、「最近」の出来事かどうかは微妙なんですけど、もう一つ嬉しいことがありました
これ、発案者俺。(ドヤァ
というのも大学入ってから2か月くらいの折、大学の広報戦略に関して生徒側が意見を言える機会があったんです。そこで言ったことがなんか採用されたみたいで、大学も意外と柔軟な姿勢をもってるのかなと思えてうれしかったです。
だけどそもそもの広報が酷すぎたんですよね。SNSも誰に向けて発信してんの?って感じですし、「その分野に周りの目を気にせず没頭できる」という単科大学特有の魅力を大学側は全く理解できてなくて、それを発信できてないのがもどかしかったのです。
いやマジで、都内で馬が闊歩してるキャンパスなんて農大かうちぐらいじゃないの?野生動物の狩猟するサークルとか学食で出たゴミで堆肥作ってるサークルなんてありますか?そうそうないでしょ?それなのに10か月前意見交換会でうちの広報担当は開口一番
「うちの大学は魅力や知名度に乏しく…」
こう言い放ったんですよ。笑止。いや笑止って初めて使ったわ。
でもあんなこといきなり言われちゃ流石に失笑するしかないでしょ。だってこんなにユニークな空間を魅力が乏しいって言っちゃうんだから。これはもう魅力がないんじゃなくて広報課の目がついてないんだなと。
とまあ、そんな経緯で出たアイデアなんですけど、ちゃんと届いてよかったよ。クオリティとかはともかく、ちゃんと機能してることが確認できたからね。あれ以来、本当にうちの広報心配になってたから。あれでいて頑張ってるのかもね…だとしたらとっくにやってるはずだけどね…サークルの紹介なんて
…そんなところですかね。以上が自慢でした。最後はともかく、なんか素直に喜べないことばっかですねえ。本当は素直に喜べばいいことだっていうのは頭ではわかっているんですけど。まぁ天邪鬼は生まれつきですから、これも仕方ないということで。
もう書くこともないので先日寄った殿ヶ谷戸庭園の写真でも載せときます。あと最近の出来事と言えばXperiaからiPhoneに機種変しました。iPhone11だっけかな。Xperiaのカメラが傷ついてしまったのでこれからはキレイに写真が撮れると思うと少し楽しみですね、NHKも晴れて解約できましたし…とか思ってたらiPhoneに変えたその日にXperiaが最新モデル発表したんですよね。俺のイヤホンジャック返せクソが
【ブログの終わり方がわからずに適当に写真を載せて終わらせようとする人間の図】
珍しく気分がよかったので殿ヶ谷戸庭園に行きました。まだまだ知らない木が多くてモチベになりました。
〈希死念慮〉という言葉を知らないときに書いたブログ
彼女がほしい
そんな感情をぼんやりと抱いてから数か月が過ぎた。性に飢えているから?違う。人恋しくなった?それも違う。じゃあ彼女はいらないってことじゃないか?断じて違う。
私には〈朝ご飯抜く〉とか〈遅くまで起きる〉とかそのくらいのテンションで〈死ぬ〉という選択肢が湧くことがある。
ただし、あくまで湧くだけ。湧いた後はすぐに消える。別に私は自殺志願者でも精神疾患を患っているわけでもないから。ただ、なんとはなしに死んでもいいなという瞬間が訪れる。それだけのこと
私は現在こうして生きている。なぜか。主たる要因は親にある。今死んだら親が悲しむだろうなあと思って、申し訳なくて死ねない。だから生きている。だから死んでいない。今までは。今までこれでやってきてたし。
でも、半年前に祖父が往生を遂げた。今までそこにあるものだと思ってた祖父がいなくなってからというものの、「(私の親もいつかは死ぬんだな)」と今更ながらに思うようになった。そしてそう考えると、時たまやってくるあの選択肢がひどく怖くなった。
〈死んでもいいのでは〉という感情のボヤを瞬時に消していたのは両親の存在に他ならない。でも、そんな親がいなくなったとき、どうだろう。頻度は高くなくても〈死ぬ〉という選択肢は私のとる行動としてそこまで不思議なものじゃなくなる。私にとっての死ぬという行動を妨げるモノが、あまりにも貧弱なのだ。
もし私が儒教の思想を色濃く受けておらずに『孝』なるものを知らなかったら。親が逝ったら。それでなくても、親と関係が悪くなって絶縁状態にあったら。たらればを宣ってもどうしようもないが、もしそんな状況になったら、私の中の〈死ぬ〉という選択肢は弱いものじゃなくなるし、普通に死にかねない。むしろ死ぬのが安牌のようにも思えてしまう。
──そんなことを現実味をもって思えてしまった。思えてしまったので、まずい。
だから彼女がほしいし、ゆくゆくは結婚相手がほしい。私がふとした瞬間に人生のセーブデータを消したくなったときにそっと脳裏をよぎってくれるような。衝動的な気の迷いを断ち切ってくれるような。そんな命綱がほしい
私は人間だから、煩悩まみれだし、究極には死にたくない。死にたくはないんだけど、現状生きたいと思える要素もない。だから死ねない理由がほしい。できるだけ作成に自分で関われるような、何か形に残るようなもの。それでいて、比較的長期間効力を持ち、契約解除にそれなりの手間を要するもの。そう、パートナーとか。子供とか
だいたい、今、生きてることだって、私は実感を伴っていない。現実から目を背けたいがあまり、空虚な現実を生きて、リアルな虚構に身を預ける。それが昼夜で機械的に繰り返される。はっきりしているのは形式的には死んでないだけで、そこに生きているという実感なんて伴っちゃいない。
現実を見なきゃいけないな。と、最近になってからよく思うようになった。等身大の自分を受け止めないことには何も始まらないよと。答えももう出ている。しかし、どうにも怖いのだ。現実を見ることで嫌気がさしてセーブデータを消してしまうんじゃないのか、と。見た現実が致死量だった場合に怯えて、行動が起こせない。臆病にもほどがあるが、〈生きる〉ことを決心してとった行動で死んだらいやだなんていう杞憂がいつもある。そうなったらいやだから、何か最後のよりどころを作っておきたい
そういうわけだから、私は彼女がほしい。けれどもそういうわけであるから、私は一向に彼女ができない。
天高い秋、肥えるのは俺
やめられない止まらない、とどまることを知らない私の食欲。誰か助けて
食欲の秋とはいい得て妙だ。もっとも今までは「食欲の秋」なんていう言葉は、〈秋〉という他の季節に比べて個性が薄めの季節が無理やりキャラクタライズされた結果のプロパガンダ、強引に貼られたレッテルだとばかり思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。実際、私の夕飯時に炊くコメの量は1.5合から2合に増加し、エンゲル係数も鰻登りの一途を辿りに辿っている、現に画面に映った「鰻登り」という言葉の響きに触発されて私の口に唾液が緊急放流されるほどである。いやもう冗談抜きに私の食欲に歯止めが利かない、さながらブレーキの利かない2tトラックのような凶悪さである
このところの私の食事情は以下のとおりである。
・コメ三合食っちまった
・デフォが米二合食いきる
・間食に悪魔のおにぎりを自作する
・衝動的に甘いものが食いたくなる
・そんなに好きじゃなかったラーメン屋が魅力的に映る
・炒め物に使う油の量がだんだんと増える etc...
口寂しいとはまさにこのこと、日々更新される私のデブ勇伝。まだ救いなのは自炊をしているということと夜食という禁忌を犯していないことくらいである
さらに悩ましいのは運動をしていないことだ。
これを読んでる人は「いや運動しろよ」と思うことだろう。いやもうまったく、仰る通りです。運動するだけでメタボ予備軍から新陳代謝の活発な若者に変貌できるというのだから、こんなにわかりやすい正解もない
しかしながら実行に移せていればこんなしょーもない悩みを抱くこともないわけなんですよねぇ、うーんこの自堕落おじさん
でもさすがに運動しようと思います、このままだと不健康まっしぐらなので。健康のために運動しようっていう思考から漂うジジイ臭
昔の日本人は〈食欲の秋〉という素晴らしい言葉を残してくれましたが、同時に〈スポーツの秋〉というなんとも忌々しい響きの言葉も残しやがりました。せっかくなので、運動もしっかりして充実した秋を送ろうと思います
2019年10月28日
どうも、ぬぅです
今日話すのはちょっとしたことです。就寝時って、意識のある世界から眠りの世界へと橋を渡る瞬間があるじゃないですか。なんか起こされたら秒で起きれるけど限りなく寝てる状態に近い、そんな感じの瞬間
最近気づいたんですけど、私あのときにずっとどやされてるんですよね、いや実際には一人で寝るだけなんですけど、意識の内外をつなぐ橋に自分の良く知っている人が何故かいて、その人にめっちゃ怒鳴られてるんです
これ、最近起きたことじゃなくて、よくよく考えると結構前からどやされながら寝てるんですよ、家族とか先生とか友達とかに理由もない罵詈雑言の嵐を尽くされて、眠りに落ちるわけです。ちなみに昨夜はバイト先の店長でした
本当に迷惑な話にも思えますけど、これがそうでもないんです、夢っていうものはたいてい一番最後の部分しか記憶されません。今日はたまたまずっと眠りが浅かったからわかったことで、普段は特にどやされようが生活に影響は出ません。そう考えると日常生活に一切支障をきたさない罵詈雑言ってすごいですよね
皆さんはこういう夢の始まりって体験したことはありますか?私はここまではっきりと記憶に残ることはなかったので少し新鮮でした。ただもう二度と味わいたくはないですけど
まぁあまり気分の良くないものとは言え、いままでにも叱られる夢というのは大量に見てきたのでもはや何もメンタルにダメージは入らなくなってきてるのでどうでもいいんです、あでもそうなると就寝中終始怒られてるってことになるな、それは怖いわ。なんといえばいいか、私の脳内が終わってて怖いわ。というか私の罪の意識深っ
今回はそんなところで終わりです